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IN CONVERSATION | TEPPEI KANEUJI & MEGUMI MATSUBARA
PACIFIC May 7 – June 4, 2011 Scion Installation L.A., Los Angeles, United States Curated by: PMKFA & Antonin Gaultier Artists: Atsuhiro Ito, Kyohei Sakaguchi, Megumi Matsubara, Motoyuki Daifu, PMKFA, Takashi Suzuki, Teppei Kaneuji, Ujino, Yotaro Niwa, Yuri Suzuki moderated & written by NAOKI MATSUYAMA Naoki Matsuyama (NM): When I was asked to moderate this conversation, I couldn’t immediately imagine how to go about it because I had an image of your works as being very different. For instance, Megumi’s works tend to rely on the presence of other people. The name she gave for her architectural practice, Assistant, is emblematic of that. On the other hand, Teppei’s works remind me… Continue reading
Holistic Approach Reveals the Mechanisms of a World Hidden Within
POINT : Korea-Japan exchanging artists and critics exhibition Artists: AHN Kanghyun, AHN Doojin, MOON Sungsik, HASHIMOTO Satoshi, FUJII Hikaru, MATSUBARA Megumi Critics: LEE Sunyoung (critic) KIM Mijin (Seoul Arts Center, director / Hongik University) YOO Jinsang (KAYWON School of Art & Design) SUMITOMO Fumihiko (POINT curator) HATANAKA Minoru (NTT Inter Communication Center [ICC], curator) HARA Hisako (curator) Organized by: National Museum of Contemporary Art, Korea, Changdong Art Studio, Alternative Space LOOP Kyoto Art Center, Tokyo January 9–24, 2010 MIJIN KIM MATSUBARA Megumi, inspired by her background in architecture, portrays spaces encountered in everyday life. Her work is not confined to a certain genre, but spans painting, sculpture, video art, musical… Continue reading
총체적 감각으로 드러낸 비밀스런 세상의 체계
POINT : Korea-Japan exchanging artists and critics exhibition Artists: AHN Kanghyun, AHN Doojin, MOON Sungsik, HASHIMOTO Satoshi, FUJII Hikaru, MATSUBARA Megumi Critics: LEE Sunyoung (critic) KIM Mijin (Seoul Arts Center, director / Hongik University) YOO Jinsang (KAYWON School of Art & Design) SUMITOMO Fumihiko (POINT curator) HATANAKA Minoru (NTT Inter Communication Center [ICC], curator) HARA Hisako (curator) Organized by: National Museum of Contemporary Art, Korea, Changdong Art Studio, Alternative Space LOOP Kyoto Art Center, Tokyo January 9–24, 2010 김미진 마쯔바라 메구미는 건축을 전공한 기반으로 우리가 살고 있는 공간을 표현대상으로 삼는다. 그녀의 작업은 회화, 조각, 영상, 음악, 사진이란 예술의 전통적 장르에 속하지 않고 그 모두를 사용하며 때로는 각 분야 전문가들과 협업하며… Continue reading
総体的感覚で現した、秘められた世の中の仕組み
POINT : Korea-Japan exchanging artists and critics exhibition Artists: AHN Kanghyun, AHN Doojin, MOON Sungsik, HASHIMOTO Satoshi, FUJII Hikaru, MATSUBARA Megumi Critics: LEE Sunyoung (critic) KIM Mijin (Seoul Arts Center, director / Hongik University) YOO Jinsang (KAYWON School of Art & Design) SUMITOMO Fumihiko (POINT curator) HATANAKA Minoru (NTT Inter Communication Center [ICC], curator) HARA Hisako (curator) Organized by: National Museum of Contemporary Art, Korea, Changdong Art Studio, Alternative Space LOOP Kyoto Art Center, Tokyo January 9–24, 2010 キム・ミジン 松原慈は、建築を専攻した基盤の上、我々の住む空間を表現の対象としている。彼女の作業は、絵画、彫刻、映像、音楽、写真という芸術の伝統的ジャンルに属さずにそのすべてを使い、時には各分野の専門家達と協業して総体的結果を生み出す。2008年東京のGallery Within assistantで発表した「Absent City」は、ギャラリー空間をひとつの都市と見なし、幾何学と格子で出来ている建築的形式を解体し、作家個別の仕組みで再解釈した作品である。これは、ビル外部の建築要素が取り除かれた、室内要素だけで構成された都市の内密な個人的空間を設置した作品で、その中に隠れている空間を現すことで、秘められた世の中の仕組みを発見するようになる。松原は、想像力、知覚という個別の感覚的仕組みを使い、区切られたり重なり合った異なる空間の次元を現して見せる。登場した室内オブジェ等は、属する環境を意味する記号として使われるのだが、ぶら下がった格子窓を通して目に入ってくる人物写真は、窓ガラス越しに隣人を見る状況として解釈され得るし、黒いテーブルと幾何学的構造の木は、室内花壇を想像できる。空間を構成する構造物だけでなく、テレビとビデオ、ウォールペイント、照明スタンド、天井にぶら下がった半透明の色紙等は、音と光、風と関係しお互いに影響を及ぼし、全体を循環させて視知覚的拡張をもたらす。木造物の穴から中をのぞくと、日の差す草原の自然風景が見え、四角い黒木箱を出すと中に小さな丸い穴があって、その中には興味をそそるまた違った世界が存在している。しかし離れて見ると、この丸い穴達は繊細に変化する小さな光のように見えるが、近くからみると都市を見降ろせるようになる通路である。まるで地下世界のように、この下では草花、金属、プラスチック、パズル、チャック等のテキストの書かれた紙へと延びる線、四角のピース等で海中に沈んだ都市、情報世界の発展と共に加速し、広まりゆく都市が造られている。その中には、外部であるギャラリーの室内風景が空となり、入口の透明板に反射した光と磁場、空気、水の流れで、生成のミクロ世界を生み出す。松原は、都市の政治的、社会的環境から退いた空間に関心を置き、日常の記号を使って新しい視知覚的再現へと解釈している。空間は各々層毎に異なる世界が存在し、それらは穴や風、光のような小さかったり実態のない要素と一緒に繋がり、互いに介入し関係を築く。 そこは、未来と現在、過去、創造と理想の時空が混在した生成の空間である。「Absent City」は、隠された個人内部にある、現われない様々な世界のレイヤーである。それが多いほど、我々は豊富な芸術世界を経験できるようになる。2007年、子供たちと行ったワークショップの結果である「Le Corbusier」では、四角枠という決められた空間に、子供たちが選んだオブジェ等をぶら下げ、多様でありながらも調和し統一された構成を見せてくれる。鮮やかな色の円、直六面体、三角形の幾何学的形と、だらりと延びる編、紐、ホースのような、非定型の形でできた日常のオブジェ達が、限定された空間で重なったり現われたりしながら、必然と偶然の世の中の法則を代弁している。結局松原慈は、空間全体を使って日常的物事の外側に見える形が持つ固定概念や制度・状況に、隠喩、半透明、無意識、記憶、光、音という非物質的要素を介入させ、絶えず再構成され、修正され、変化する世界の仕組みを、感覚的に現そうとしているのだ。 初出: POINT 展覧会カタログ, January 2010
To Share Realities
Published Art Center Ongoing, Tokyo July 29–August 9, 2009 NAOKI MATSUYAMA To “publish”. Multi-disciplinary artist Megumi Matsubara has designated this as the act of simply picking up an object for our enjoyment and then presenting it somewhere else. What has been published in this exhibition is a collection of 1000 objects, pressed flat and collected during a month-long trip in Europe, and displayed in a time-sequential grid that covers all the walls of the intimate space of Art Center Ongoing. The neatly aligned exhibits give at first the impression of a methodical scientific research, of an assemblage of specimens. The package of bowling socks, a flight ticket, remnants of a… Continue reading
現実たちを共有すること
Published Art Center Ongoing, Tokyo July 29–August 9, 2009 松山 直希 「Pubish」する。ジャンルを超えて活躍するアーティスト松原慈は、どこかで自分が気になったものを拾いそれをどこか違うところで紹介するという行為をそう名付けた。今回の展覧会で「publish」されたのは、松原が1ヶ月のヨーロッパの旅行の最中に集められ平らに押しつぶされ、Art Center Ongoingの親密な空間に順次的なグリッド状に並べられた1000個の物たちである。その整然とした雰囲気に、鑑賞者は入念に系統的な科学研究の標本群を見ているかのような第一印象を抱くのではないだろうか。しかし、それぞれ採取された時間と場所が記された物たちの中には、たくさんの植物の押し花だけでなく、ボーリング用の靴下のパッケージや、飛行機のチケット、誰かと遊んだゲームで使ったメモ等といった様々な誰かが、かつて生きた時間の形跡が数多く紛れ込んでいる。そして鑑賞者はその時間に参加するよう招待されているのだと気づくのである。 考古学者マイケル・シャンクス(Michael Shanks)は考古学的知識の構築は必然的に創造的で詩的な事象でなければならないと説いた。なぜなら考古学とは「『不在』についてである。そこには頑として存在しないものについて遠回しに書く事」にほかならないからである。よって考古学は「過去はこうだったという確定的な解説等というものとは無縁でなければならない。それよりも多義で多様な解説を醸成するよう努力すべきである」1 、とシャンクスは考える。これと似たように、この展覧会は完全に鑑賞者の能動的な 関与、つまり鑑賞者自身のパフォーマンス、に依存していると言える。鑑賞者は展示されている物の一つ一つを通してシチュエーションや物語を想像することを暗に要求されている。これはアーティストが容易に付け加えられたであろう付加的な情報(例えば短い日記のようなテキスト)の欠如から見ても明らかだろう。この、物体と鑑賞者の間に生じる揺らぐ時空。ここにこそ、この展覧会が宿っている。 進化生物学者リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)は「現実とはフィクションである」と言う。それは、全ての生物が自分の存続に一番有利な方法をもって現実を知覚しているためであり、例えば人間は原子レベルではほぼ真空な物体を「堅固な固体だ」と認識する「中間的世界 (middle world)」2で 作動していることをさす。つまり全ての生物は生物学的、無意識的レベルで絶え間なく自分たちの生活を可能にする情報を選択しているということである。これは大幅に異なった時間や空間のスケールに移行しなくとも説明がつくかもしれない。私たちの生活において、必要な情報を無意識的に、選択的に認知してその他の莫大な情報を知覚から排除していることは、私たちの視覚の焦点という例をとってみても明かだろう。私たちが認知する現実とはすなわち構築されたもの、より正確に言えば普遍の生産を経たものなのである。松原はこの絶え間ない無意識的なプロセスを意識されうるレベルに浮上させようとした。アーティスト本人の言葉を借りると「意識の流れを記録」しようとしたのである。それは、ある時のある場所と、そこにある無数のものの中で発生する松原慈という過程を記録しようとしたということである。アーティストトークの際に彼女の旅行の写真が見れたことは非常に興味深かった。彼女自身指摘したように、彼女が集めてきた物達と鑑賞者の間に揺らめきながらも確立されていた会話が、瞬く間に独白劇に変性したのである。松原が、違った様式の記録方法、自分の体験を他者に開き、動的な介入と再構築を促す記録方法を試みたのはこのためにほかならない。 これは今回の展覧会のために規定された物の数の由来をしるとより鮮明に見えてくる。1000という数字は、ちょうど松原が旅行に発つのと同じ時期に参加しないかと誘われたスウェーデンのアートパブリケーション「Museum Paper」が毎号1000部限定で発行されるということによって定義された。自分の作品を出版的な手法で紹介する他のアーティストの中で、松原だけは今回集めた物の一つ一つをそのまま本一冊ずつに綴じ込んでしまうことにしたのだ。つまり展示されている物達はまず本の一部となるためにスウェーデンに渡り、その後たまたまその本たちを手にする事となるそれぞれの読者のもとへと旅立ってゆく。この展示会はもはや完成しないのだ。いつでもどこでも読者がそのページを開けば、それは継続されたプロセスとしてそこに発生する。アーティストトークが終わりにさしかかった頃、「他の人を最初からあてにしてしまっているんです」、と松原はこのプロジェクトの恊働性/共演性を要約した。 この世界を編集し欲しい情報を集め幅広い受領者に向けて「publish」するという過程は、最近話題となっているウェブサービス「Twitter」を思い起こさせる。このレビューの範囲外になる(そして筆者にはどちらにせよまだ把握できていない)スケールやスピードや様式の違いから生じる複雑極まりない問題はひと先ず置いておくとして、この一つの相似点に注視してみるのは無益ではないような気がする。昨今のTwitterの爆発的な成長はユーザーがまさしく松原がこのプロジェクトでやったことをやりたいという願望の現れとは解釈できないだろうか。つまり私達を取り囲む状況や物や情報等をより繊細で鮮明な意識性を持って拾い集め、それを使って自分の生を記録しながら同時に「publish」するということである。それは絶え間ない現実達の生産の共有である。 しかし、実際に物を拾って常に持ち歩いているどでかい電話帳で平たく押しつぶし、そしてそれをまた展覧会で「publish」した後にさらにスウェーデンで本にするという一連の行動は、140文字書いてクリックすればいいウェブサービスに対しては比較にならない、意欲と意思ー注意と言い換えていいかもしれないーが必要なことは明らかだろう。 「詩とは全てのものを親密にすることによって言語に注意を喚起する… …そしてしばしばこの注意というものは世の中の残酷さや無関心に最も実質的に対抗しうるものなのである」 。3この展覧会は、アート評論家であり作家のジョン・バージャー(John Berger)が言うように「親密性に至らせる働き」で鑑賞者を包み込みそれに対峙させ、私たちを旅へと、私達がお互いとどのように関係しうるのかという原点を考え直す作業へと、誘って行く。 [註] 1. Pearson, M & Shanks, M (2001) Theatre/Archaeology, Routledge, London 2. Dawkins, R (Jul 2005) Queerer than we can suppose 3. Dyer, G (Eds) (2001) John Berger: Selected Essays, Bloomsbuy Publishing, London Appearance: Tokyo Art Beat Review, September 2009 > Link to Original Article
幻の動物を追って(Published展に寄せて)
Published Art Center Ongoing, Tokyo July 29–August 9, 2009 小川 希 休日は、家に一人でいる時間が長い。本を読んだり美術館に行ったりといった人並みの過ごし方をすることもあるけれど、特に何もせず考え事だけをしていることが思いのほか多い。何か悩みを抱えているのかといえば、そんなこともなく、ただぼんやりと思いを巡らせ自分自身と会話を続けるといった感じだ。時に、意識が大きくなり過ぎてしまい、鏡に映った自分に対し、自分はこんな顔だったか?と違和感を覚えることがある。精神と肉体にズレが生じはじめてしまったのか。そんな時は「このままではまずい」と、外の空気を吸いに家を出て、精神の先走りを正そうとする。 程度の差はあれ、こうした「肉体と意識」あるいは「精神と物質」みたいな問題は、誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。私の経験上、アーティストと呼ばれる人々には、幾度となくそれらについて考えを巡らせている場合が少なくない。そもそも自分という存在を形作っているものはなにか。鏡に映る肉体的なものか、あるいは目に見えない意識や精神のようなものなのか。答えのでない問いをアーティストは延々と自問自答する。松原さんのこれまでの作品を見る限り、彼女もその例外ではない気がする。作品タイトル中で使われる「存在」「架空の」「未確認」といった言葉が、その問題に対する彼女の興味を物語っているからだ。 もちろん、松原さんの作品は「精神/物質」という単純な二項対立の概念からできあがっているわけではいない。他者という要素を巻き込むことで、そこで生まれる会話や、記憶、イメージ等が、彼女の作品をより複雑なモノに変え、その全貌を掴むことを困難にする。松原さんが作り出しているのは、具体的な何かというより、ある状況や状態といった方が的を得ているのかもしれない。 物質的な現実世界を無視し、精神世界のことだけを考えだすと、何処までが自分で、何処からが他者なのか、境界線を引くことすら難しくなる。「存在」や「意識」について思いを巡らせたところで、おそらく明確な答えは出せないだろうし、それどころか日常生活に支障を来すことさえあるので、多くの人はその問いをなかったことにする。けれど松原さんは、その問いに向かい合わざるをえない状況を自ら作り出し、人間という存在の不確かさから目を背けない。そこには哲学者のような苦悶はなく、むしろ楽しそうにさえ見えるから気持ちがいい。などと、松原さんの表現世界について思いを巡らせ、精神の先走りを結局は許してしまう私の休日なのであった。 幻の動物を追って ■バランスをとる 松原さんのこれまでの活動を拝見すると、表現方法がその都度変化し、多岐に亘っているような印象を受けます。ご自身の中では、一貫したテーマやコンセプトといったものがあったりするのですか? 最近はあるかもしれません。ただ、少し前までは目の前の環境に反応し、その度に何らかのアプローチをしていくといった感じでした。たくさんのことをやっているという意識はあっても、そこに何か一貫したテーマを設けて整理するようなことをしたくなかったし、する必要もなかった。一つのコンセプトを追いかけるという考え自体が、自分を怖がらせるような感じがしていたので。それが、去年ぐらいから気持ちが徐々に内側へ向かい始めました。私の作品を並べてみてもそんなには変化を感じてもらえないかもしれないけれども、制作のアプローチや作る時の考え方がこれまでとは随分と変わっていて、自分は何を考えてこんなことやっているのだろうか?と振り返れるようになってきた。そして、一貫したテーマと呼べるかどうかはわからないけど、自分の興味として最近自覚するようになってきているのが、「モノがそこにないこと」ということで、それがすごく気になっていますね。 いくつかの作品のタイトルにも、そういったニュアンスの言葉を使っていますよね。松原さんがおっしゃる「モノがそこにないこと」について、もう少し詳しく教えてもらえますか。 ずっと、作ることで何かが立ち現れてくることはとても嬉しかった。今もそれは変わらないのだけれど、そういったモノが出来上がってくる場を「ポジティブ・スペース」とすると、その逆の「ネガティヴ・スペース」に私はすごく興味があるんだと思います。プリーツの襞のように、襞が逆転しないと見えてこない、いつも隠れている部分というか。 松原さんの制作は、目に見えない存在に近づこうという行為のようなものなのでしょうか。 私はそもそも、目に見える/見えない、聞こえる/聞こえない、数えられる/数えられない、などの境目がよくわからないんです。私が制作のプロセスとして重要視しているのは、そういう可/不可のどちらかではなく、その二つの間のバランスを取ることなんです。そのバランスが取れたときに、見えるものと見えないものとの境目がわからなくなるような状況が生まれる。でもそれって特別なことでもなくて、日常によくあることだと思うんですよね。例えば、雨の中で水たまりに建物なんかが映っていたとしますよね。でも雨で視界がぼやけているから、水たまりとそこに映った風景、そして本物の建物は、全部一つの風景として自分の中に入ってくるでしょ。だから、それが水たまりであるとか、そこに映った建物であるとか、そんな明確な捉え方は誰もしていないのではないかなって。遠くのガラスに映った東京タワーを本物の東京タワーに感じたり。実際に、それが本物でない理由も実はあまりないのではないかと私は思ってしまう。ある特定の状況ではみんなそういうことを日常的に感じているのに、水たまりに映ったものは存在しないと考えるのは、単なる一つの見方やルールなんじゃないかと考えてしまうんです。物質か精神か、みたいな話になってしまうかもしれないけど、その境目はもうちょっと繊細なもののような気がする。だから私は、モノを作るときは、そのバランスを取りたいと思っているんです。 面白いですね。しかも、そういった抽象的な事柄を意識的にかたちにされているというのは驚きです。 作品を生み出すと、それを見た人からいろいろな反応があって、会話が始まる。そういうコミュニケーションが影響して、自分の考え方も抽象的な事柄に焦点が合ったり、逆に外れていったりもします。その反応とかバランス感覚が、私にとって一番失いたくないものだと思っているんです。だから私は変わり続けていくし、それはただたくさんのことをやりたいというわけではなく、なんらかのバランスを取るためにはたくさんのものが必要だということ。いつも中心から逃れていたいという気持ちがあったり、何かに囲われそうになるとすぐそこから逃げ出すというのは、昔からの私の癖みたいなもの。だから一つ一つの表現が、ある種バラバラに見えることがあるかもしれないけど、実際には外すからこそ取れるバランスというのがあって、その調和というか不調和というか、どちらでもいいんですけど、それこそが私が追いかけているものなのかもしれません。 ■個人の境界線 松原さんの作品には、他者を入り込ませるための導線が必ず用意されているようなイメージがあります。先ほどの話とも通じるかもしれませんが、あえて他人を介入させ、自分の世界観を揺るがすといったことを意図していたりもするのですか? それはあるかもしれませんね。私は誤解とか翻訳されたコンセプトとか歪んだ記憶とか、そういうものがすごく好きなんです。なぜなら、そこでは自分が予想していなかったことや、ちょっとした不都合が起きてしまうから。私の作品では、完成したらそれで終わりというものではなくて、そこに他者が入り込むことで誤解や翻訳が生まれ、それが自分の作品世界に重層的な関わりを持つようになることを理想としています。自分だけをそんなに信じていないというか。作品自体は自分が作ったものであっても、どこかに提示した瞬間、そこで生まれる他人のイメージとの間に明快な境界線が引けなくなるような気がするんです。 松原さんは、個人の表現活動の他に、複数の人とともにassistantという活動も展開されていますよね。それも個人の枠を超えたところでの可能性を見据えてのことなのですか? assistantに関して言うと、始めたばかりの時は自分と一体化していて、私=assistantで良かったんです。でも、しばらくして社会にassistantという活動が認められていくに従い、それは私とは別のものとして存在し始め、全然ネガディヴな意味ではなく、徐々に自分との間に摩擦が生じ始めたんです。assistantは、自分の子どもやファミリーみたいなものになり始めました。ときには一心同体のように、お互いに助け合う存在です。ただ今度は、assistantと私とのバランスを取るためにも、プロジェクトを多少分ける必要が出てきて。 プロジェクトを分けたことで、assistantではできなかったことができるようになりましたか? 私は、制作活動の大概のことは一人ではできないと思っているんです。始まりは一人かもしれないけど、それが世の中に置かれるまでには様々な人が関わるし、私はその過程もすごく好きだったりする。だからassistantという活動を続けてきているというのもあるし。でも唯一、一人でしかできないことがある。それが詩を書くような世界です。詩の言葉はどこかから降ってくるもので、それを自分自身ですぐに書き留めなきゃいけない。それだけは、誰かに任せることのできない作業なんですよね。 ■情景が降ってくる 降ってくるのは言葉だけではなく、イメージみたいなものでもあるんでしょうか? 詩というのは情景なんです。普通のプロジェクト・コンセプトのように理路整然とした言葉の場合もあるかもしれないけど、私の場合、個人的な作品であればあるほど、降ってきた情景が猪突猛進で進んでいく。 その情景とは、言語的なものではないということ? そうですね。「幻の動物」みたいな感じで、影は見えるんだけど尻尾を掴もうと思っても絶対に逃げられちゃうような。だからその情景が降ってきた正にその時に書いて閉じ込めておかないと、その気配すらわからなくなってしまう。だから、情景を急いで書き留めることは言葉でしたとしても、降ってきているもの自体は言葉ではないんです。心象風景とか意識そのものが降ってきていると言ったほうが近いかもしれない。 そうした言葉では捉えられないもの=アート作品だとすると、松原さんは他方で、誰が見ても納得できるようなデザインの仕事や、明快な文章、あるいは重厚な理論に基づいた建築作品なども手がけていますよね。ご自身の表現のアウトプット手段を状況に応じて意識的に使い分けたりしているのですか? そもそも私はカテゴリーや職業という概念を、幼い頃から理解できたことがないんです。ただ、モノを作る過程でたくさんの人が自分に意見を言ってくる場合と、本質的にはほとんど何も言われない場合があって、意見を言われないほうがどちらかと言えばアートなのかなとは思います。私にとってモノを作るという行為は、降ってきたものを自分の体を使って吐き出すようなもの。まさにそういう行為である詩を書くということは、たとえ紙とペンがなくても暗唱してしまえばいいし、そこにはたくさんのイメージが凝縮されていて、その重みはある一つの大きな建築に劣っているとも思わないんです。ただ、それが降ってきて私の口をついて出るまでにも、翻訳の過程が必ずあるんですよね。降ってきたものを現実化するには、どの素材が一番近いかとかどの色が似合うかとか、その過程で数えきれないぐらいのレイヤーが存在してしまう。だから私の中では、アートだから/建築だから/デザインだからといった区別をしてもあまり意味がないんです。私が生み出す様々な表現に境界線を見る人もいるかもしれないけど、自分自身では、プロジェクトに関わる人や意見が違うために、降ってきたものの翻訳プロセスが変わっているだけなんだと思っています。 (2009年6月15日、Art Center Ongoingにて収録) 初出: Art Center Ongoing Website, July 2009 > Link to Original Article
A Closer World
Point, Group Exhibition curated by Fumihiko Sumitomo, Seung Wan Kang, Mijin Kim, Jinsuk Suh, Jinsang Yoo Alternative Space LOOP, Seoul August 29–September 24, 2008 FUMIHIKO SUMITOMO These days, it is easy to feel the amount of information we are able to access rapidly increasing due to enhanced telecommunication via the Internet and transportation via airplane. The rapidly changing media makes the general public, who are for the most part not wealthy or powerful men, into the all-encompassing possessor of memories, which can be perceived as dreadful in many ways. However, without using the ben- efits of such technical development, an exhibition like this could not be achieved. As we enjoy… Continue reading