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幻の動物を追って(Published展に寄せて)
Published Art Center Ongoing, Tokyo July 29–August 9, 2009 小川 希 休日は、家に一人でいる時間が長い。本を読んだり美術館に行ったりといった人並みの過ごし方をすることもあるけれど、特に何もせず考え事だけをしていることが思いのほか多い。何か悩みを抱えているのかといえば、そんなこともなく、ただぼんやりと思いを巡らせ自分自身と会話を続けるといった感じだ。時に、意識が大きくなり過ぎてしまい、鏡に映った自分に対し、自分はこんな顔だったか?と違和感を覚えることがある。精神と肉体にズレが生じはじめてしまったのか。そんな時は「このままではまずい」と、外の空気を吸いに家を出て、精神の先走りを正そうとする。 程度の差はあれ、こうした「肉体と意識」あるいは「精神と物質」みたいな問題は、誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。私の経験上、アーティストと呼ばれる人々には、幾度となくそれらについて考えを巡らせている場合が少なくない。そもそも自分という存在を形作っているものはなにか。鏡に映る肉体的なものか、あるいは目に見えない意識や精神のようなものなのか。答えのでない問いをアーティストは延々と自問自答する。松原さんのこれまでの作品を見る限り、彼女もその例外ではない気がする。作品タイトル中で使われる「存在」「架空の」「未確認」といった言葉が、その問題に対する彼女の興味を物語っているからだ。 もちろん、松原さんの作品は「精神/物質」という単純な二項対立の概念からできあがっているわけではいない。他者という要素を巻き込むことで、そこで生まれる会話や、記憶、イメージ等が、彼女の作品をより複雑なモノに変え、その全貌を掴むことを困難にする。松原さんが作り出しているのは、具体的な何かというより、ある状況や状態といった方が的を得ているのかもしれない。 物質的な現実世界を無視し、精神世界のことだけを考えだすと、何処までが自分で、何処からが他者なのか、境界線を引くことすら難しくなる。「存在」や「意識」について思いを巡らせたところで、おそらく明確な答えは出せないだろうし、それどころか日常生活に支障を来すことさえあるので、多くの人はその問いをなかったことにする。けれど松原さんは、その問いに向かい合わざるをえない状況を自ら作り出し、人間という存在の不確かさから目を背けない。そこには哲学者のような苦悶はなく、むしろ楽しそうにさえ見えるから気持ちがいい。などと、松原さんの表現世界について思いを巡らせ、精神の先走りを結局は許してしまう私の休日なのであった。 幻の動物を追って ■バランスをとる 松原さんのこれまでの活動を拝見すると、表現方法がその都度変化し、多岐に亘っているような印象を受けます。ご自身の中では、一貫したテーマやコンセプトといったものがあったりするのですか? 最近はあるかもしれません。ただ、少し前までは目の前の環境に反応し、その度に何らかのアプローチをしていくといった感じでした。たくさんのことをやっているという意識はあっても、そこに何か一貫したテーマを設けて整理するようなことをしたくなかったし、する必要もなかった。一つのコンセプトを追いかけるという考え自体が、自分を怖がらせるような感じがしていたので。それが、去年ぐらいから気持ちが徐々に内側へ向かい始めました。私の作品を並べてみてもそんなには変化を感じてもらえないかもしれないけれども、制作のアプローチや作る時の考え方がこれまでとは随分と変わっていて、自分は何を考えてこんなことやっているのだろうか?と振り返れるようになってきた。そして、一貫したテーマと呼べるかどうかはわからないけど、自分の興味として最近自覚するようになってきているのが、「モノがそこにないこと」ということで、それがすごく気になっていますね。 いくつかの作品のタイトルにも、そういったニュアンスの言葉を使っていますよね。松原さんがおっしゃる「モノがそこにないこと」について、もう少し詳しく教えてもらえますか。 ずっと、作ることで何かが立ち現れてくることはとても嬉しかった。今もそれは変わらないのだけれど、そういったモノが出来上がってくる場を「ポジティブ・スペース」とすると、その逆の「ネガティヴ・スペース」に私はすごく興味があるんだと思います。プリーツの襞のように、襞が逆転しないと見えてこない、いつも隠れている部分というか。 松原さんの制作は、目に見えない存在に近づこうという行為のようなものなのでしょうか。 私はそもそも、目に見える/見えない、聞こえる/聞こえない、数えられる/数えられない、などの境目がよくわからないんです。私が制作のプロセスとして重要視しているのは、そういう可/不可のどちらかではなく、その二つの間のバランスを取ることなんです。そのバランスが取れたときに、見えるものと見えないものとの境目がわからなくなるような状況が生まれる。でもそれって特別なことでもなくて、日常によくあることだと思うんですよね。例えば、雨の中で水たまりに建物なんかが映っていたとしますよね。でも雨で視界がぼやけているから、水たまりとそこに映った風景、そして本物の建物は、全部一つの風景として自分の中に入ってくるでしょ。だから、それが水たまりであるとか、そこに映った建物であるとか、そんな明確な捉え方は誰もしていないのではないかなって。遠くのガラスに映った東京タワーを本物の東京タワーに感じたり。実際に、それが本物でない理由も実はあまりないのではないかと私は思ってしまう。ある特定の状況ではみんなそういうことを日常的に感じているのに、水たまりに映ったものは存在しないと考えるのは、単なる一つの見方やルールなんじゃないかと考えてしまうんです。物質か精神か、みたいな話になってしまうかもしれないけど、その境目はもうちょっと繊細なもののような気がする。だから私は、モノを作るときは、そのバランスを取りたいと思っているんです。 面白いですね。しかも、そういった抽象的な事柄を意識的にかたちにされているというのは驚きです。 作品を生み出すと、それを見た人からいろいろな反応があって、会話が始まる。そういうコミュニケーションが影響して、自分の考え方も抽象的な事柄に焦点が合ったり、逆に外れていったりもします。その反応とかバランス感覚が、私にとって一番失いたくないものだと思っているんです。だから私は変わり続けていくし、それはただたくさんのことをやりたいというわけではなく、なんらかのバランスを取るためにはたくさんのものが必要だということ。いつも中心から逃れていたいという気持ちがあったり、何かに囲われそうになるとすぐそこから逃げ出すというのは、昔からの私の癖みたいなもの。だから一つ一つの表現が、ある種バラバラに見えることがあるかもしれないけど、実際には外すからこそ取れるバランスというのがあって、その調和というか不調和というか、どちらでもいいんですけど、それこそが私が追いかけているものなのかもしれません。 ■個人の境界線 松原さんの作品には、他者を入り込ませるための導線が必ず用意されているようなイメージがあります。先ほどの話とも通じるかもしれませんが、あえて他人を介入させ、自分の世界観を揺るがすといったことを意図していたりもするのですか? それはあるかもしれませんね。私は誤解とか翻訳されたコンセプトとか歪んだ記憶とか、そういうものがすごく好きなんです。なぜなら、そこでは自分が予想していなかったことや、ちょっとした不都合が起きてしまうから。私の作品では、完成したらそれで終わりというものではなくて、そこに他者が入り込むことで誤解や翻訳が生まれ、それが自分の作品世界に重層的な関わりを持つようになることを理想としています。自分だけをそんなに信じていないというか。作品自体は自分が作ったものであっても、どこかに提示した瞬間、そこで生まれる他人のイメージとの間に明快な境界線が引けなくなるような気がするんです。 松原さんは、個人の表現活動の他に、複数の人とともにassistantという活動も展開されていますよね。それも個人の枠を超えたところでの可能性を見据えてのことなのですか? assistantに関して言うと、始めたばかりの時は自分と一体化していて、私=assistantで良かったんです。でも、しばらくして社会にassistantという活動が認められていくに従い、それは私とは別のものとして存在し始め、全然ネガディヴな意味ではなく、徐々に自分との間に摩擦が生じ始めたんです。assistantは、自分の子どもやファミリーみたいなものになり始めました。ときには一心同体のように、お互いに助け合う存在です。ただ今度は、assistantと私とのバランスを取るためにも、プロジェクトを多少分ける必要が出てきて。 プロジェクトを分けたことで、assistantではできなかったことができるようになりましたか? 私は、制作活動の大概のことは一人ではできないと思っているんです。始まりは一人かもしれないけど、それが世の中に置かれるまでには様々な人が関わるし、私はその過程もすごく好きだったりする。だからassistantという活動を続けてきているというのもあるし。でも唯一、一人でしかできないことがある。それが詩を書くような世界です。詩の言葉はどこかから降ってくるもので、それを自分自身ですぐに書き留めなきゃいけない。それだけは、誰かに任せることのできない作業なんですよね。 ■情景が降ってくる 降ってくるのは言葉だけではなく、イメージみたいなものでもあるんでしょうか? 詩というのは情景なんです。普通のプロジェクト・コンセプトのように理路整然とした言葉の場合もあるかもしれないけど、私の場合、個人的な作品であればあるほど、降ってきた情景が猪突猛進で進んでいく。 その情景とは、言語的なものではないということ? そうですね。「幻の動物」みたいな感じで、影は見えるんだけど尻尾を掴もうと思っても絶対に逃げられちゃうような。だからその情景が降ってきた正にその時に書いて閉じ込めておかないと、その気配すらわからなくなってしまう。だから、情景を急いで書き留めることは言葉でしたとしても、降ってきているもの自体は言葉ではないんです。心象風景とか意識そのものが降ってきていると言ったほうが近いかもしれない。 そうした言葉では捉えられないもの=アート作品だとすると、松原さんは他方で、誰が見ても納得できるようなデザインの仕事や、明快な文章、あるいは重厚な理論に基づいた建築作品なども手がけていますよね。ご自身の表現のアウトプット手段を状況に応じて意識的に使い分けたりしているのですか? そもそも私はカテゴリーや職業という概念を、幼い頃から理解できたことがないんです。ただ、モノを作る過程でたくさんの人が自分に意見を言ってくる場合と、本質的にはほとんど何も言われない場合があって、意見を言われないほうがどちらかと言えばアートなのかなとは思います。私にとってモノを作るという行為は、降ってきたものを自分の体を使って吐き出すようなもの。まさにそういう行為である詩を書くということは、たとえ紙とペンがなくても暗唱してしまえばいいし、そこにはたくさんのイメージが凝縮されていて、その重みはある一つの大きな建築に劣っているとも思わないんです。ただ、それが降ってきて私の口をついて出るまでにも、翻訳の過程が必ずあるんですよね。降ってきたものを現実化するには、どの素材が一番近いかとかどの色が似合うかとか、その過程で数えきれないぐらいのレイヤーが存在してしまう。だから私の中では、アートだから/建築だから/デザインだからといった区別をしてもあまり意味がないんです。私が生み出す様々な表現に境界線を見る人もいるかもしれないけど、自分自身では、プロジェクトに関わる人や意見が違うために、降ってきたものの翻訳プロセスが変わっているだけなんだと思っています。 (2009年6月15日、Art Center Ongoingにて収録) 初出: Art Center Ongoing Website, July 2009 > Link to Original Article
Designing the Hidden, Hiding the Obvious
Absent City Gallery within assistant, Tokyo June 6–June 12, 2008 JAMES WAY Megumi Matsubara of architecture unit Assistant discusses how her latest ongoing project “Absent City” came together. Assistant is an international and interdisciplinary design practice co-founded by Megumi Matsubara, Hiroi Ariyama and a team of others. This June at their studio-cum-gallery space, “gallery within assistant”, Megumi Matsubara pieced together a series of explorations into an installation titled “Absent City.” The multimedia interactive installation combined photography, sound, interior design and architectural-model-influenced sculpture in an environment that allowed viewers to develop their own non-linear fictions. While the installation was planned and produced by Matsubara, the number of participants and collaborators involved… Continue reading