現実たちを共有すること

Published
Art Center Ongoing, Tokyo
July 29–August 9, 2009

松山 直希

「Pubish」する。ジャンルを超えて活躍するアーティスト松原慈は、どこかで自分が気になったものを拾いそれをどこか違うところで紹介するという行為をそう名付けた。今回の展覧会で「publish」されたのは、松原が1ヶ月のヨーロッパの旅行の最中に集められ平らに押しつぶされ、Art Center Ongoingの親密な空間に順次的なグリッド状に並べられた1000個の物たちである。その整然とした雰囲気に、鑑賞者は入念に系統的な科学研究の標本群を見ているかのような第一印象を抱くのではないだろうか。しかし、それぞれ採取された時間と場所が記された物たちの中には、たくさんの植物の押し花だけでなく、ボーリング用の靴下のパッケージや、飛行機のチケット、誰かと遊んだゲームで使ったメモ等といった様々な誰かが、かつて生きた時間の形跡が数多く紛れ込んでいる。そして鑑賞者はその時間に参加するよう招待されているのだと気づくのである。

考古学者マイケル・シャンクス(Michael Shanks)は考古学的知識の構築は必然的に創造的で詩的な事象でなければならないと説いた。なぜなら考古学とは「『不在』についてである。そこには頑として存在しないものについて遠回しに書く事」にほかならないからである。よって考古学は「過去はこうだったという確定的な解説等というものとは無縁でなければならない。それよりも多義で多様な解説を醸成するよう努力すべきである」1 、とシャンクスは考える。これと似たように、この展覧会は完全に鑑賞者の能動的な 関与、つまり鑑賞者自身のパフォーマンス、に依存していると言える。鑑賞者は展示されている物の一つ一つを通してシチュエーションや物語を想像することを暗に要求されている。これはアーティストが容易に付け加えられたであろう付加的な情報(例えば短い日記のようなテキスト)の欠如から見ても明らかだろう。この、物体と鑑賞者の間に生じる揺らぐ時空。ここにこそ、この展覧会が宿っている。

進化生物学者リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)は「現実とはフィクションである」と言う。それは、全ての生物が自分の存続に一番有利な方法をもって現実を知覚しているためであり、例えば人間は原子レベルではほぼ真空な物体を「堅固な固体だ」と認識する「中間的世界 (middle world)」2で 作動していることをさす。つまり全ての生物は生物学的、無意識的レベルで絶え間なく自分たちの生活を可能にする情報を選択しているということである。これは大幅に異なった時間や空間のスケールに移行しなくとも説明がつくかもしれない。私たちの生活において、必要な情報を無意識的に、選択的に認知してその他の莫大な情報を知覚から排除していることは、私たちの視覚の焦点という例をとってみても明かだろう。私たちが認知する現実とはすなわち構築されたもの、より正確に言えば普遍の生産を経たものなのである。松原はこの絶え間ない無意識的なプロセスを意識されうるレベルに浮上させようとした。アーティスト本人の言葉を借りると「意識の流れを記録」しようとしたのである。それは、ある時のある場所と、そこにある無数のものの中で発生する松原慈という過程を記録しようとしたということである。アーティストトークの際に彼女の旅行の写真が見れたことは非常に興味深かった。彼女自身指摘したように、彼女が集めてきた物達と鑑賞者の間に揺らめきながらも確立されていた会話が、瞬く間に独白劇に変性したのである。松原が、違った様式の記録方法、自分の体験を他者に開き、動的な介入と再構築を促す記録方法を試みたのはこのためにほかならない。

これは今回の展覧会のために規定された物の数の由来をしるとより鮮明に見えてくる。1000という数字は、ちょうど松原が旅行に発つのと同じ時期に参加しないかと誘われたスウェーデンのアートパブリケーション「Museum Paper」が毎号1000部限定で発行されるということによって定義された。自分の作品を出版的な手法で紹介する他のアーティストの中で、松原だけは今回集めた物の一つ一つをそのまま本一冊ずつに綴じ込んでしまうことにしたのだ。つまり展示されている物達はまず本の一部となるためにスウェーデンに渡り、その後たまたまその本たちを手にする事となるそれぞれの読者のもとへと旅立ってゆく。この展示会はもはや完成しないのだ。いつでもどこでも読者がそのページを開けば、それは継続されたプロセスとしてそこに発生する。アーティストトークが終わりにさしかかった頃、「他の人を最初からあてにしてしまっているんです」、と松原はこのプロジェクトの恊働性/共演性を要約した。

この世界を編集し欲しい情報を集め幅広い受領者に向けて「publish」するという過程は、最近話題となっているウェブサービス「Twitter」を思い起こさせる。このレビューの範囲外になる(そして筆者にはどちらにせよまだ把握できていない)スケールやスピードや様式の違いから生じる複雑極まりない問題はひと先ず置いておくとして、この一つの相似点に注視してみるのは無益ではないような気がする。昨今のTwitterの爆発的な成長はユーザーがまさしく松原がこのプロジェクトでやったことをやりたいという願望の現れとは解釈できないだろうか。つまり私達を取り囲む状況や物や情報等をより繊細で鮮明な意識性を持って拾い集め、それを使って自分の生を記録しながら同時に「publish」するということである。それは絶え間ない現実達の生産の共有である。 しかし、実際に物を拾って常に持ち歩いているどでかい電話帳で平たく押しつぶし、そしてそれをまた展覧会で「publish」した後にさらにスウェーデンで本にするという一連の行動は、140文字書いてクリックすればいいウェブサービスに対しては比較にならない、意欲と意思ー注意と言い換えていいかもしれないーが必要なことは明らかだろう。 「詩とは全てのものを親密にすることによって言語に注意を喚起する… …そしてしばしばこの注意というものは世の中の残酷さや無関心に最も実質的に対抗しうるものなのである」 。3この展覧会は、アート評論家であり作家のジョン・バージャー(John Berger)が言うように「親密性に至らせる働き」で鑑賞者を包み込みそれに対峙させ、私たちを旅へと、私達がお互いとどのように関係しうるのかという原点を考え直す作業へと、誘って行く。

 

[註]
1. Pearson, M & Shanks, M (2001) Theatre/Archaeology, Routledge, London
2. Dawkins, R (Jul 2005) Queerer than we can suppose
3. Dyer, G (Eds) (2001) John Berger: Selected Essays, Bloomsbuy Publishing, London


Appearance: Tokyo Art Beat Review, September 2009
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