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ABSENT CITY:存在しない都市展に寄せて
Absent City Gallery within assistant, Tokyo & Alternative Space LOOP, Seoul June 6–June 12, 2008 (Tokyo), August 29–September 24 (Seoul) 南後 由和 「社会学的ランチ」と名づけられた、松原慈と7人の対話から始まる一連の物語は、私(=松原)に内在する他者性を詩的かつ繊細に浮かび上がらせる。まずもって留意すべきは、それらが「私は誰で、ここはどこか」を問いながら展開されたことからもわかるように、ランチのテーブルで交わされた会話において、ある自律した私と他者が登場人物として設定されているわけではないということだ。むしろ、私には回収されない外部と他者には回収されない外部とが交感し、振幅し合う場がセッティングされていると考えたほうがよい。つねにすでに他者へと開かれた私は、単独であると同時に複数であるような状態としてしか存在しえない。 私と他者がその間で同時存在的に揺れ動く関係性を持っているように、物語の舞台は、意識と無意識、能動と受動、秩序と曖昧さの間で宙吊りになっている。だからといって、松原は、その宙吊り状態を放置するわけではない。むしろ、ふたつの次元が重なり合い、異質な位相へと翻訳される契機、あるいは媒介から媒介へと事物が連鎖していく手触りをつかもうとするのだ。 創発的に紡ぎ出された言葉の断片は、互いに共鳴し、変形され、重なり合い、運動し続けることによって、全体性を形づくる。いわば、局所間の振る舞いの相互作用がたえず偶然性を呼び込みながら増幅し、互いに応答することによって環境が育っていく。 そのような応答関係は、制作プロセスにもこだましている。収集された言葉のざわめきは、テキストのみならず、松原の構想にもとづく協同作業として、セバスチャン・メイヤーによる二次元のポートレイト、assistantによる三次元の心理地理学的模型、そしてILPOによる展示空間に充満した音楽など、さまざまなメディアへと翻訳されていく。都市には、速度のズレを持つ種々のメディアが歴史的に堆積しており、都市とは、そのようなメディア間の翻訳の過程にしか存在しないと言わんばかりに。 ガイドブックやインターネットによって事前に入手した情報のフィルターを通して、予定調和的に経験される都市はつまらない。その点、本展における都市の見聞録では、過去・現在・未来の時間軸が錯綜した時空間のフィードバック・ループが形成されていて興味深い。そこには、始まりも終わりもない。とめどなく流れる混沌とした日常の時空間に、90分×7人(1週間)という時計時間の単位が挿入されることによって、あるリズムが生まれる。それらはときに調和し、ときに反発しあいながら転調を繰り返していく。 予定調和的ではなく、「予言調和的」とは実に巧みな言い回しだ。まさに、本展における出来事は登場人物の記憶や無意識を内包しながら連鎖的に進行し、その過程は、非現前的な出来事の到来を招き寄せる、開かれた場としてあるのだから。 7人のポートレイトを含め、記憶からの類推によって形づくられたと言ってもよい都市模型のオブジェはどこか、余韻と予兆に満たされている。だからだろうか、本展ではいまだかつて見たことのない都市の記譜が繰り広げられているにもかかわらず、どこか懐かしさを覚える。それらは、意味を伝達する記号というよりは、種々の雑多なイメージが圧縮、置換されたものであろう。明示的な意味であるコノテーションでも、言外の外示的な意味であるデノテーションでもなく、ロラン・バルトが指摘する「第三の意味」(鈍い意味)に近い。それは、鋭角や直角より大きい鈍角のごとく開かれており、意味を超えたなにかを胎動せしめる「余白」を備えている。それゆえ、他者の介入やコミュニケーションを誘発する。 「第三の意味」とは、「定義と近似値の間で宙吊り」になっており、名づけることや記述することは困難なものとしてある★1。それは鋭利なまなざしからは消失し、分析的認識では掬い取ることができない、束の間の儚さを醸し出している。実際、ポートレイトにおいて、人物と街並みは互いに切り離されているわけでもなく、溶け込んでいるわけでもない。人物と街並みは、半透明なものとして薄らと付着し、そのあわいに、虚と実が入り交じった「気配」とでも呼ぶべきものを漂わせているかのようだ。 ところで、本展を都市論の系譜を通して読もうとすると、たとえば、「社会学的ランチ」は、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を、心理地理学的な起伏に富んだ都市模型は、シチュアシオニストであるギー・ドゥボールらの「心理地理学的パリ・ガイド」「ネイキッド・シティ」やコンスタント・ニューヴェンホイスの「ニューバビロン」を彷彿させる。また、磯崎新の「見えない都市」「流言都市」やハンス=ウルリッヒ・オブリストの「噂の都市」などともオーバーラップするだろう。 ただし、本展は、趣味によって都市が侵蝕されていくとか、都市が個室空間化するといった議論とは位相を異にしている。なぜなら、プライヴェート/パブリックといった先験的な境界を前提としない本展が照準しているのは、私性の社会空間への直線的かつ単線的な表現ではなく、私性があくまで他者性や社会空間との重層的関係のもとに表出され、媒介されていく動態にあると考えられるからだ。 一見、本展で収集された会話の内容は、日常生活に立脚したもので、そこから立ち現われてくる圏域は近傍にすぎず、都市とは直接結びつかないと思われるかもしれない。しかし、かつてアンリ・ルフェーヴルが『日常生活批判』で述べたように、日常生活には、政治、経済、メディア環境など、マクロな諸力が刻印されており、都市と入れ子状になっている。 日常生活を「反復と創造の対決の場」★2という動態的性格を帯びたものとして把握したルフェーヴルに共鳴するかのごとく、本展は、日常生活における反復的実践が安定性や恒常性の維持に終始するのではなく、差異やズレを生産する契機を孕んでいること、そしてそれらの諸契機の生成が連鎖していく様態を、多角的に照射している。 会期中、日常生活ではアトリエとして使用されている一室が、展示空間に様変わりする。しかし、それは展覧会や美術館の都市への開放といった枠組みから捉えるべきものではないことは言うまでもない。そもそも本展の集合的な営為自体が、外延的な境界線内に完結するものではないのだから。 展示空間に足を運んだあなたは本展にすでに巻き込まれており、観察者として外部に安住することはできないだろう。不特定多数の人と偶有的な関係を取り結ぶにあたっての微細な仕掛けや工夫があちこちに散りばめられた展示空間は、そこを訪れる人の行為やそこで交わされる会話によって、引き延ばされ、幾重にも歪められ続けていくにちがいない。 [註] ★1─ロラン・バルト『第三の意味』(沢崎浩平訳、みすず書房、1984)88頁。 ★2─アンリ・ルフェーヴル『日常生活批判2』(奥山秀美訳、現代思潮社、1970)91頁。 初出:ABSENT DOCUMENT (Absent City 展覧会カタログ), June 2008