とてもきれいなものを見た。
今夜、東京で。
ある舞台。十九人の、少女たち。男たち二人。簡略化して言うならば。
意識の動きは、簡単に、こぼれて落ちる。私の外部へ、溢れ出て、空気に接触する。
風化した涙が、剥がれて光った埃になり、すでに、あっけなく、駅のプラットフォームにばら撒かれる。
私の外部へと発散した意識の行方を、見送ることしかできずに、流れ出る体液を押しとどめることすら、かなわない。
感動とは、そういうもの。きれいなものとは、そんなもの。
私には、共鳴して飛び出してゆく私の内部を、見送ることしかゆるされていない。私の中の、もっとも手放したくない柔らかいものが、触れようとする私の手から、永遠に遠ざかってゆく。
掴もうとする指の間に、たしかな感触を残しながら。
揮発する直前の、感情を、凍り固める方法を、私はひとつしか知らない。書くこと。感情の思い出を、いくつかの表現に置き換えること。感情を高次の言語に追い込んで、その仕舞い場所を忘れないように、糸口だけ書き記しておくこと。ただそれだけの、単純で、困難な作業だけが、体外へ溶け出した体液のぬくもりを、もう一度、私へ運んでくれる可能性を残して、私を安心へ誘う。
私は眠りにつくことができる。その安心は、凍らせた液体を、私にふたたび香らせることができるのだから。
とてもきれいな、今夜、東京で見たそれは、もうすでに、いまさっきではなく、彼方へ走り去った。日付は変わり、私の風化した体液すら、もう風に舞わない。
胸が、ざわざわしていた。
時報がずっと鳴っていて、その音が大きくなった瞬間に、始まりがあった。始まりから終わりまでの間には破裂があり、その破裂の予感だけで、私の肩が痙攣していた。
赤ん坊の背骨をなでる医者の指が、私の背筋を逆向きに降りていった。逆さまに到着する未来のように。
バラバラに鳴る少女たちの甲高い声が、止むとき、あるいは、揃うとき、破壊がある。音を立てずに膜が破れる。破壊を静けさで包むのは、死に与えられた周到な誕生の讃歌。
終演と同時に、のどに飴が詰まった。私ののどは、吐き出されようとする液体を押しとどめるように、栓をしたようだ。
飴屋法水という演出家の、リズムが、刻み込む。
時報の音にざわめく胸。
流れて去っていくものの、確かさ。
のどに残る飴玉。
私の内部に発見された、柔らかなものに、出てゆかないでと懇願して、私の身体が反応する。
小さな痛みをもってして、別れと死を見過ごすまいとする、私の身体。
このお芝居の死が、そのまま、もうひとつの葬式を連れ立つ。
舞台の終わり、刻み込まれる生まれ年と誕生日。
お芝居の葬式にふさわしく。
死ぬのはいつも他人。
今夜、私の中から飛び出た柔らかいものが死ぬのを見送った。
別れを惜しんで、今夜、私はこれを書かなければ眠ることができない。
*3月26日 金 19:00-20:50 転校生 平田オリザ作 飴屋法水演出 を鑑賞して